大阪医科薬科大学(医学部)・兵庫医科大学(医学部)☆合格☆畑地心さん〜うまくいかないことのオンパレード。 何度もぶつかって、カベを乗り越えた〜

合格体験動画あり

 

悩みなんてない、と思っていたけれど

私は、これまでの人生で何かについて深く悩んだことがなかった。



だから、最初にこの塾へ来たときは、

ほかの塾生が先生に相談していることにまったく共感できなかったし、

相談することに対して不思議に思っていた。



自分に自信があったから、やればできると信じていた。



この塾に来る前日も、夜10時まで友達と遊んで、

そこからここへ来る準備を始めた。



自分を変えたいなんて微塵(みじん)も思っていなかった。



自分の限界に挑戦



6月、私の誕生日を村田先生や柏村先生に祝ってもらった。



そのとき私は、

「自分に限界を感じたことがないんです」と村田先生に言った。



先生は



「それは、今までは自分のできる範囲でしか戦ってこなかったからだね。



限界を感じるまで挑戦してみたらいい。」



と答えてくれた。





私は、その言葉の意味がよく分からなかった。



しかし、実際に受験勉強を始めてみると、

自分一人では乗り越えられない壁が何度も立ちはだかった。



できないことへの悔しさに、涙・・・



私は進学校とは真逆の高校に通っていたため、

物理や化学はほぼゼロからのスタートだった。



現役のときに共通テストで半分以上の点数が取れたのは、

数学とリスニングだけ。



医学部志望なのに、数3も理解できていない分野がほとんどだった。



一年目、一日10時間以上は勉強した。

それでも成績は医学部合格に届かなかった。



私は限界突破コースに入っていたため、スマホを塾に預けていた。





スマホから離れて机に向かい続けてみて、

自分がスマホに依存して生きていたことに気がついた。



それまでは誰かと繋がっているのが当たり前だったのに、

勉強でひたすら自分と向き合い続けなければならない状況になり、

始めは全然集中できていなかった。



また、精神的な未熟さもあったと思う。

できないことに対する悔しさを、泣くことでしか発散できなかった。



これが最後、と覚悟を決めた2年目



一年目が終わって、もう一年ここで浪人するのか、

それとも違う予備校にするのかについて親と揉(も)めた。



正直、自分でも迷っていた。



「一年やってダメだったんだから、もう一年やっても意味ないんじゃないか?」



「本当にもう一年ここを信じていいのだろうか?」



という思いが何度も頭をよぎった。



それでも、塾を辞めたら、自分は何かに負ける気がしたから、

「絶対ここで最後までやり切ってやる」と気合いを入れて2年目に臨んだ。



「もう、これが最後だ」と思った。



本気で向き合ってくれた、村田先生



気合いを入れ直して臨んだ浪人2年目は、

1年目の比にならないくらい自分の弱さと向き合わなければならなかった。



「こんな苦しいなら、もう塾に行きたくない!」と泣きながら帰った日もあった。





私の2年目の課題は、「考える」ことだった。





スマホに依存していたためか、

私には内省する力が全くと言っていいほどなかった。



自分のその弱点を、村田先生は見抜いていた。





私は人から助言されるのが大嫌いで、

村田先生から言われたときも、超絶キゲンを損(そこ)ねてしまった。





それでも村田先生は、私の成長のために、たとえ嫌われようとも、悪態をつかれようとも、何度も私の弱さと真っ向から向き合ってくれた。



何度もぶつかっていくうちに、自分でも気付かないうちに、なんとなく村田先生を信頼している自分がいた。





「先生が言うなら、そうなのかもしれない。やってみるしかない」





自然とそう思えた。



仲間が頑張る姿に勇気をもらって



ある日の限界突破の会で、先生がある塾生に

「最近、何か悩んでることはある?」と聞いていた。



その塾生は「悩みはない。悩まないために、迷わずに行動することを心がけている」と答えていた。



そのとき、私は勉強でうまくいかないことが多く、

悩みがないと答えた塾生に対して少し悔しい気持ちもあった。





しかし、



「迷わずに行動することを心がけている」



という言葉はすごく心に響いた。





その日から、私は一日の最後に



「迷うな。今日という一日を生き抜け」



という言葉を書いて、思い出し続けた。





周りで頑張っている人を見たとき、

自分と比べて落ち込むこともあるかもしれない。



それでも私は、同じ環境で一緒に自分自身と戦う仲間から

勇気をもらうことが多かった。



言葉を交わさずとも、姿勢で誰かを応援できることを改めて実感した。





1日15時間の勉強法で、感覚が変わった!



2年目の秋頃、受験の疲れからか、なかなか勉強時間が増やせないでいた。



私はほとんど勉強の貯金がゼロだったから、やっぱり絶対量は必要だった。



そのことを講師の阿部さんに相談したとき、ある提案をされた。





それは、一日15時間以上の勉強を21日間続けるというもの。



当時は、勉強時間が10時間を切ってしまう日もあったくらいだったから、

内心「無理だ・・・」と思っていた。



それでも、阿部さんの目を見たとき、

私ができることを100%信じてくれていると感じた。



「あ、これは神だめしだ!」と思った。



と同時に「ここで断ったら、きっと受験を乗り越えられない」とも思った。





それから3週間は何がなんでも15時間勉強した。





21日が経って、阿部さんに達成したことを報告した。



返ってきたのは労いの言葉ではなく、

「じゃ、次行くか!」という、さらに21日間続けよう、という言葉だった。





「一回やったことをもう一回やるだけだし、楽勝ですよ!」と思った。





しかし、疲れや気の緩みからか、起きる時間が遅れていった。

でも、落ち込みそうになった瞬間から、切り替えて勉強を始めた。



その日の睡眠時間がたとえ2時間になろうと、15時間勉強する覚悟は決めていた。



42日が経った後もそのままの勢いでしばらくは15時間勉強を続けた。



この挑戦で得たものは、勉強時間もそうだが、「勉強するのが当たり前」という感覚だった。



自分に対する自信も身についた。





みんなの応援に元気をもらい、共通テストで過去最高得点



共通テストが近づいてきた12月、

それまでずっとやってきていたバイブル本の理解の浅さに絶望した。



「こんなに毎日やっていたのに、自分はまだまだ理解が及んでいなかったのか」と毎日打ちのめされていた。時間はもうない。



だからこそ、一日一日を丁寧に。

今、目の前の問題を完璧にする。





そのときから、試験で詰まったときに突破する力が

格段に上がっていった気がした。





共通テスト本番、社会と国語の手応えがまったくなく、

全てを投げ出したくなった。



それでも、ミスターステップアップ自慢の合格弁当を一口食べた瞬間、

どんなにできてなくても絶対最後までやり切ろうと思った。

 



一日目が終わって塾に帰ると、

ホワイトボードに事務の大島さんが名言を書いてくれていた。





そこには「大丈夫、きっと明日はできる」と書かれていた。

それを見て私は、明日も頑張ろうと元気をもらった。

 



試験本番、私は多くの人に応援されていることを強く実感した。



その時、私はこの塾に来て良かったと本気で思えた。



結果的に共通テストでは過去最高点を出し、

なんとか国公立に出願することができた。





最後まで諦めない!何より気持ちが大切



共通テストが終わったら、

一週間もしないうちに私大の医学部の試験が始まった。



一つ一つの試験で自分の全てを出し尽くすから、もちろん体力も消耗していった。



しかし、全てを出し尽くすからこそ、

新たな気付きが生まれ、試験を重ねるごとに成績が上がっていく感覚があった。





最後の最後まで諦めないこと。

これがどれほど重要か。





3月31日、大阪医科薬科大学の後期試験の合格通知がきた。



村田先生がよく言う

「受験は心理戦」はまさにその通りだった。





満足する瞬間がないほど、全力を出し切った



この2年の受験を振り返ると、完璧な日なんて一日もなかった。



満足感なんて微塵も感じなかった。



しかし、だからと言って、もう一年やるかと言われても、

あれ以上の日々を過ごすことなんてできないと、やりきったのだと、

今となっては思う。



勉強しない日々は大事な人を失ったような感覚で、なんとなく寂しかった。



受験期間中、「教材とデートするような感覚で勉強しなさい」と言われても、

ちっとも意味がわからなかったが、



終わってみて初めて、

自分がどれほど勉強にエネルギーをかけていたのかを実感した。



そして、それほど全力でやれて、受験をして良かったなと思った。





ミスターステップアップでは、

受験はゴールではなく、通過点に過ぎないのだと教わった。



「自分のためではなく、世の中や、人のために生きる」



ミスターステップアップで教わった、この言葉を胸に新たな道を進んでいこうと、

私は覚悟を決め直した。





畑地さんが使っていた教材